絵と本

<< March 2024 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
ディック・ブルーナ Dick Bruna 追悼

                 Dick Bruna(c)Mercis bv 1953-2011

 

2011年3月26日、

東日本大震災で被災した日本の子どもたちへ向けて送った

ディック・ブルーナさん(当時83歳)のミッフィーのイラストとメッセージ。

「絵本」作品の中では、あまり涙を流さないうさこちゃんが大粒の涙を流し、

あえて無色にしたというシンプルなイラストに、

無言の深い悲しみと優しさを感じた人は少なくなかったと思う。

 

あれから6年。

2017年2月17日、ディック・ブルーナ Dick Brunaさん

(本名:ヘンドリック・マフダレヌス・ブルーナ Hendrik Magdalenus Bruna)

が故郷ユトレヒトで亡くなりました。満89歳。

 

彼の絵本は、全世界で50カ国語以上に翻訳されて、8,500万部以上の

ロングセラーになっていることは有名です。

50カ国以上の子どもたちが、彼のお話に、絵に、色に触れていることを

想像すれば、涙よりも笑顔が溢れます。

 

日本では、最も早く翻訳されたようで、

1964年に『ちいさなうさこちゃん』(福音館書店)の初版が発行されました。

それ以降、5,000万部以上の絵本が刊行され、

「子どもが必ずどこかで出会う絵本」の代表的な存在になっている。

ブルーナさん自身1978年にはじめて日本を訪れて以来、

その後も幾度となく日本を訪れる親日家であり、

日本とのつながりは強かったようです。

 

「ちいさなうさこちゃん=ミッフィー」に代表されるように、

ブルーナさんの仕事は、イラストレーター、絵本作家としての姿が

最もよく知られていて、その業績は大きい。一方で、

48歳の時に、お父さんが経営していた出版社「A・W・ブルーナ&ズーン」を

退職するまで、この出版社の2,000冊にも及ぶペーパーバックの装丁の仕事に

もっとも大きな影響を受けました。短い時間の中で本の内容を象徴的な絵と色、

タイプフェイスという素材に翻訳して、それらを足していく仕事というよりも

むしろ引き算をしてシンプルにしていくことが、装丁デザインという仕事を

第二の編集作業の様にとてもかっこよいと思ったことを憶えています。

 

多くの学びを与えてくれたことに心より感謝するとともに、

ご冥福をこころよりお祈りするばかりです。


ブルーナさん逝去の公式プレスリリース(オランダ語)

リリースの中で、日本とのつながりを感じさせる一文も含まれています。

「ブルーナのシンプルさを追求したスタイルは日本で広く好まれ、

1960年代には既に大きな人気を博していました」と。

http://nijntje.pr.co/143170-dick-bruna-overleden

 

 

 

きりの中のサーカス ブル−ノ・ムナーリ作

霧の中のサーカス_J_1
 

30年ほど前になるのか。
ブルーノ・ムナーリの名前を知り、おそらく
はじめて手にした作品がこの絵本だった。

 

1968年にイタリアで初版本発行。
1981年に八木田宜子さんが日本語に翻訳、好学社から初版本が出版。
その後、絶版となり、2001年に谷川俊太郎さんの翻訳で
再びフレーベル社から復刻。彼の絵本作品の中でも代表作だ。(と思っている)

 

はじめて頁を開いたとき「こんなのあり?」が、最初に思ったこと。
他のどんな絵本とも違っていた。印象は「絵本」ではなかった。
言葉よりも、素材、色や形を駆使して、1cm以下の束の中に、
深い奥行きとリアルな空間を作り出している「画集」、という趣。
多色刷りで、異なる色のファインペーパーをふんだんに使い、
型抜き、断裁がされて造本としては、贅沢だし加工も難しい。

 

「トレーシングペーパーって、向こう側がぼんやり見えて、
まるで霧の中にでもいるようじゃない?」と子どもに説明するまでもなく
直感で靄のかかった街がそこにあるように意図的に計算してつくっている。
それがリアルなのである。今でこそバーチャルリアルといえば、仮想現実空間と
みんなわかるけど、これは、アナログなVR。そんな感覚だった。
透けているから、うっすらと霧の向こうに見える風景に誘われて
自然と手は、次のページをめくる。
「言葉」が、ストーリーをつくりだしているのではなく、
ページをめくる度に表れる「絵」が、自然と言葉を語らせてくれる。
「信号機だ」「青になった」・・・・・絵本としての
物語が最低限の活字で構成されている。

「感動」という情緒的な気持ちより、物質的にこんな印刷はありか!?

という則物的な思考だけが残った。

 

後々、「ブル−ノ・ムナーリ」が、デザイナーとしても、
美術家、哲学者としても偉大な存在であることを知るきっかけとなり、
アイデアを形にすることは、ボワッとしたイメージを、
カチッと現実世界の

高度な技術で絵にすることなんだ、と身体に染みこませてくれた一冊です。
 

きりの中のサーカス_J_中面1

「1981年 日本語 好学社版」は、表4に洒落た細工がされている。
トレーシングペーパーで、透けたその奥を向こう側、つまり裏側から見たような
気持ちにさせる反転(鏡像に)した文字でタイトルが載せてある。
ブル−ノ・ムナーリ本人の日本語出版にのみ施したアイデアなのか、
編集のプロセスで生まれたアイデアなのか・・・。
最後の最後まで、なんて遊び心に溢れているんだろう。
この一冊から、グラフィックデザインの深さと、向き合い方を思い知らされた。

よもや、自分の長男の名前が「ブル−ノ」となるとは、
まだ思いもよらなかった時代の作品である。


きりの中のサーカス_J_表4
作 ブル−ノ・ムナーリ
『きりの中のサーカス』(NELLA NEBBIA DI MILANO)
訳 八木田宜子
株式会社好学社刊 
第1刷/1981年6月2日 第2刷/1989月12月4日*
[日本語版]

世界で一番美しい本を作る男 ーシュタイデルとの旅ー


シュタイデル社の本作りが見たかった。
シュタイデル氏の仕事の仕方が見たかった。

全ての本作りの工程を行う世界中を見ても希有な会社
ドイツの「シュタイデル社」。
経営者であり、職人であり、時にプロデューサー、デザイナーでもある
本作りに情熱を注ぐゲルハルト・シュタイデルとその本作りにスポットをあてた
ドキュメンタリー映画を見てきた。

バンクーバーで写真家ロバート・フランクと対等に本の装丁の話をし
時に友人のように、写真のセレクトを行う。
パリでカール・ラガーフェルドをショーのリハーサル中につかまえて
パンフレットのチェックをさせる。
数々の天才、カリスマ、と呼ばれたアーティスト達クライアントと
対等に立って作品集づくりを行う。
それは、「作品集」というより、本という形をした「作品」づくりだ。

シュタイデル社の仕事の鉄則は、
1. クライアントとは直接会って打合せをすること
2.全行程を自社で行い品質を管理すること
3.「商品」ではなく「作品」作るつもりで臨むこと
ものづくりに携わる者にとってできそうで、なかなかできないことである。

巨匠と呼ばれるひとたちが、本の形・色・素材に悩み迷うことに
適格に選択肢を出し、そして、決定へ導く。
その姿は、本作りのコンサルタントのようでもあった。
モーリス・センダック追悼
The Art of Maurice Sendak_
            The Art of Maurice Sendak
                    Selma G.Lanes

残念です。
実写映画化もされた「かいじゅうたちのいるところ」で有名な
絵本作家のモーリス・センダック氏が逝ってしまいました。

好きな絵本作家は、優秀な画家であるのと同時に
優秀な図案化(デザイナー)でもあることが多いです。
その中でも「最も好きな作家10人」に入る人でした。
ただ絵を描くだけではなく、絵本の装丁からもわかるように
マークから、フレームのあしらいまで自分で手がけます。
つまり単なる絵描きではなくデザイナーでもあったのです。

イギリスのランドルフ・コールデコット(1846-1886)という有名な
イラストレーターに憧れてその模写をよくしていたそうです。
センダックの細密画のようなタッチの画風や画面構成は、
このような19世紀の古典イラストレーションから
多くの影響を受けたのでしょう。

それだけではなく、彼のデッサン力は、とても高いものでした。
スケッチや、下書きの多くを見ていても、しっかりとした素描力が
あの独特の細密の世界をつくりあげていることがよくわかります。

この「The Art of Maurice Sendak」の中には、それらの素描から
絵本の作品はもちろん、図案や、ニュースペーパーの挿絵、さらに
動くおもちゃや、絵本のシンボルマークに至るまで
網羅されており、彼の魅力を多く感じられる良書です。
同時に学びをを多く得られる本でもります。
しみじみとすべてを見直し哀悼の意を表します。

sendak 1
Mechanical toys. 1948

sendak 3
Where the Wild Things Are. 1955

sendak 2
In The Night Kitchen. 1970

Illustrations ⓒ 1980 Maurice Sendak
桜のいのち 庭のこころ
桜のいのち庭のこころ
  本扉 『西国三十三所名所図絵』より
       国立国会図書館蔵
     図版トレース 板垣正義氏


「自然にマニュアルはありません。
   桜も庭も守りをせなあきませんのや。」

「桜道楽、桜三代」
桜守と呼ばれ、
京都仁和寺出入りの植木職・植藤の
16代目が語る桜と庭と自然。
続きを読む >>
"シュシュクル”さん、再開
シュシュクル、再開

半年お休みをしていた、
焼き菓子屋「シュシュクル」さん
本日から、お店を再開しました。
→"シュシュクル"という焼き菓子屋さん

SUSUCRE
唐墨【からすみ】
ilpiattto_2012_No.16からすみブログ

イタリアのシチリア島やサルディーニャ島などでは
マグロやボラをつかって、よくボッタルガをつくっています。
"ボルタルッガ”とは、カラスミのことですね。
"サルディーニャのキャビア"とも呼ばれているそうです。
イルピアットでも1年に一度新鮮なボラの卵巣を築地魚河岸から
仕入れて自家製のカラスミを仕込むのだそうです。
僕はこれが大好物。魚卵、特に、鱲好きの僕としては逃せない一時期です。

ちょっと、レシピを教わったんだけど、
1. 新鮮なボラの卵巣を取り出し、その卵巣に付いている血管を針を使って血を抜きます。
2. ボラの卵巣にたっぷりの塩に2週間漬け込みます。
3. 軽くし塩抜きをして、しばらくアルコールに漬けます。
4. アルコールを良く拭き取り、太陽に当ててよく乾燥させて完成。
そう簡単にこれが作れないのです。
はっきりいってとても手間がかかります。

せっかく教わったけど、僕は、やっぱりシェフのつくってくれた
スパゲティー ヴォンゴレビアンコにスライスしてかけたり、
お魚のカルパッチョの盛り合わせに添えてもらったカラスミを
いただきながら白ワインを飲むことにしました。
ここが家だ ベンシャーンの第五福竜丸
ここが家だ_カバーあり_s
                  絵 ベンシャーン
          構成/文 アーサー・ビナード
                   装丁 和田 誠

画家ベンシャーンと詩人アーサー・ビナードの言葉が、
第五福竜丸を通して、反原水爆を訴える一冊。

++++++

1954年3月1日、マーシャル諸島のビキニ環礁で、アメリカが水爆実験を行った。
それは広島型原爆の1000倍を超え、きのこ雲は35キロメートルの上空まで昇った。大量の放射能が潮流にのって太平洋を広く汚染し、気流によって北極まで運ばれ、また放射能雨となって日本全土を含む広範囲に降り注いだ。マーシャル諸島の住民が被爆し、ビキニ環礁の近くで操業していた遠洋マグロ漁船の第五福竜丸も、死の灰をもろに浴びた。「近くで」とはいえ、第五福竜丸は米軍が定めた危険区域の外の公海で、延縄漁(はえなわ)をしていただけだった。
 「水平線にかかった雲の向こう側から太陽が昇る時のような明るい現象が3分くらい続いた」と、無線長の久保山愛吉が、爆発時の様子を語った。経験豊かな彼は、自分たちが軍事機密に遭遇してしまったことを察知し、仲間に大声で言ったーーー「船や飛行機が見えたら知らせよ。その時は、すぐに焼津に無線を打ち、自分たちの位置を知らせる。そうでなければ無線を打たない」。発信が傍受されれば、自分たちが攻撃目標にされかねないことも分かっていた。
 死の灰にまみれて、放射能病に耐えながら、第五福竜丸の23人の乗組員は自力で二週間かかって母港の静岡県焼津に帰った。自らの体験を語り、水爆の生き証人となった。世界的な原水爆禁止の動きは、彼らの勇敢な行動から始まったのだ。
 その後、核実験は2000回以上も繰り返されてきたが、人類がこれまで「核の冬」を回避し、絶滅に至らなかったのは、核兵器の使用を断固許さない市民の意識によるところが大きい。しかし現在、小型核兵器の新たな開発が進められ、21世紀の戦争でそれが使われる危険性は、高まりつつある。そんな愚行を断固許さない市民の意識が、ますます大事になってくる。
 ベンシャーンはLucky Dragon Seriesの連作を、無線長の久保山愛吉を主人公にして描いたが、そのことについてこう語っている。
「放射能で死亡した無線長は、あなたや私と同じ、ひとりの人間だった。第五福竜丸のシリーズで、彼を描くというよりも私たちみなを描こうとした。久保山さんが息をひきとり、彼の奥さんの悲しみを慰めている人は、夫を失った妻の悲しみそのものと向き合っている。亡くなる前、幼い娘を抱き上げた久保山さんは、我が子を抱き上げるすべての父だ」

+++「石に刻む線 アーサービナード」より抜粋 Text copyright ⓒ Arthur Binard,2006


ここが家だ_カバーなし_s

カバーをはずした本表紙。

ここが家だ__s

カバーの背の部分。

「ここが家だ」に関するブログ:
松岡正剛「千夜千冊」1207夜 
ベン・シャーン&アーサー・ビナード
ここが家だ
Ben Shahn & Arthur Binard 2006

集英社 2006
42年前のベンシャーン展
Benshahan 70s
                     ベンシャーン展
                    デザイン:原 弘

戦前から戦後にかけて、アメリカ絵画の近代化に
大きな足跡を残したベンシャーン。
そのベンシャーンが1969年、70歳の生涯をとじた約1年後に
東京国立近代美術館で開催されたときの図録。

ben shahan 70s_中表紙

ベン・シャーンは、中学卒業と同時に
マンハッタンのリトグラフ工房で石版工の見習いをしていました。
家計を助けるためもあったそうですが、熟練の職人のもとで働き、
貴重な修行体験でもあったようです。
石の表面に写さなければならない絵や文字と毎日触れ、学び、デザイン感覚を鍛えて、
版画の技術を身につけていきました。

「石版工として、石の抵抗に負けず、
迷いもブレもなく線を彫り込むことを覚えた。
そののち美術学校で勉強して、様々な画法を試して、
たくさんの絵を描いたが、強い線を手放そうとはしなかった。
線の力が、もはや自分の気質の一部となり、
毛筆で描くときでも、私は石に刻む線を描いている」

(晩年のベンシャーンの言葉
「石に刻む線 アーサービナード」より抜粋 Text copyright ⓒ Arthur Binard,2006)

ベンシャーン、20年ぶりの大回顧展
ben shahan CrossMedia

人間愛に満ち、人間の心に深く響く絵。
多大なる影響を受けた絵。(残念ながら人物には会えなかったけど)
ベンシャーンとの出会いは、30年以上も前。
今、20年ぶりの大開個展が開催されている。
神奈川県立近代美術館葉山で、
原画を再び目の当たりにすることができてとてもうれしい。

しかし、残念な知らせが。
「米国で活躍し、核の問題や戦争、貧困をテーマにした作品を残した
画家ベン・シャーンの国内巡回展のうち、6月から開催を予定している
福島県立美術館に対し、米国の美術館7館が所蔵作品の貸し出しを
とりやめていることがわかった。東京電力福島第一原発事故による
放射能への不安などが理由だという」
(2012年2月26日 朝日新聞)